シーメンス事件(シーメンスじけん)は、ドイツのシーメンス社の行った日本海軍高官への贈賄事件のこと。ヴィッカース社への巡洋戦艦「金剛」発注にまつわる贈賄も絡んで、当時の政界を巻き込む一大疑獄事件に発展した。大正3年(1914年)1月に発覚し同年3月には海軍長老の山本権兵衛を首班とする第1次山本内閣が内閣総辞職にまで追い込まれた。
海軍は明治初年以来、イギリス・ドイツなどから艦船や装備品を購入しており、外国の造船会社相互間の競争は激しく、海軍の高級技術将校や監督官などは、その立場上各造船会社や軍需品を取り扱う企業の日本代理店との交渉や手数料をめぐって問題を起こしやすかった。
明治末期から大正初期にかけては、藩閥・軍閥に対する批判が高まった時期であり、軍の経理問題にも一般の関心が寄せられた。前年の大正2年(1913年)には、大正政変・第1次護憲運動で長州閥・陸軍に攻撃の矢が向けられたが、大正3年(1914年)1月にこのシーメンス事件が発覚すると、薩摩閥と海軍とに批判が集中した。
事件の概要 [編集]
この事件は、シーメンス社社員のカール・リヒテルが会社の重要書類を盗み出し、東京支店長を脅迫したが失敗したことから、ロイター通信特派員アンドルー・プーレーに書類を売り、ドイツへ帰国、恐喝未遂罪で起訴されたことに始まる。
大正3年(1914年)1月21日の外電は、リヒテルに対するベルリン公判廷での判決文の中で、彼の盗んだ書類中に発注者の日本海軍将校に会社側がリベートを贈ったとの記載があると伝えたので、1月23日、第31議会衆議院予算委員会で、立憲同志会の島田三郎がこの件について厳しく追及した。山本内閣は、この議会に海軍拡張案とその財源として営業税・織物消費税・通行税の増税の予算案を提出していたことから、これに反対する民衆の攻撃の的となり、新聞は連日海軍の腐敗を報道し、海軍内部からの内部告発もあり世論は沸騰した。
1月末から2月初めにかけて、関係者の喚問や家宅捜索が開始され、2月7日、藤井光五郎機関少将(艦政本部第4部長)、沢崎寛猛大佐が検挙され、海軍軍法会議に付された。2月10日野党の立憲同志会・立憲国民党・中正会は衆議院に内閣弾劾決議案を上程した。その日、日比谷公園で内閣弾劾国民大会が開かれていたが、この決議案が164対205で否決されたことを聞くと、この大会に集まっていた民衆は憤激して国会議事堂を包囲し、構内に入ろうとして官憲と衝突した。
司直の取調べが進むとこの汚職事件はいっそう広がり、3月12日イギリスのヴィッカース社の日本代理店である三井物産の重役岩原謙三が、明治43年(1910年)に巡洋戦艦「金剛」をヴィッカース社に注文させるため海軍高官に贈賄した容疑で拘禁され、ついで飯田義一・山本条太郎ら三井物産の関係者が起訴された。その結果、当時の艦政本部長で元呉鎮守府司令長官松本和中将が「金剛」の建造に際し、三井物産の手を経てヴィッカース社から約40万円の賄賂を受けていたことが判明した。この間、貴族院は海軍予算7000万円を削減することを可決し、予算案は両院協議会の不調となり不成立となり、3月24日山本内閣は総辞職した。
後継の第2次大隈内閣は海軍粛正の声に押されて八代六郎新海相の元で大改革を断行、5月11日には山本前首相及び斎藤実前海軍相を予備役に編入する。5月19日軍法会議は、松本和前艦政本部長に対し三井物産からの収賄の容疑で懲役3年、追徴金40万9800円を、また沢崎寛猛大佐に対し、海軍無線電信所船橋送信所設置に絡みシーメンス社から収賄した容疑で懲役1年、追徴金1万1500円の判決を下した。東京地方裁判所は7月18日山本条太郎ら全員に有罪判決を下し(控訴審では全員執行猶予)、9月3日の軍法会議では藤井光五郎に対し、ヴィッカース社他数社から収賄したとして、懲役4年6ヶ月、追徴金36万8000余円の判決を下し、司法処分は完了した。
しかし、折から第一次世界大戦の勃発もあって、3名の海軍軍人を有罪としただけでこの事件は終結し、産業界と軍部との癒着構造の根源にまでは追及されなかった。
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